例えばそれが偶然の空だとしても

 太陽が空と山々の境界線から姿を消してから数分した経っていないが、姿を消した太陽とは対照的に、空は裏切られた気持ちを晴らすかのごとく急速に色彩を失いつつあった。私はそれらを眺めつつ、失われていく際の侘しさに似た感情を自身の闊歩する姿に少しでも反映させようと努めながら、道路の左とも右ともいえぬ位置を歩いていた。街並も少しずつ変わりつつある。夜、まさにこれらの時間から販売する物やサービスする内容もあるのだろう。左右に見える様々な店舗を包み込む空気達も怪訝な顔をしてそれらを見守っていた。 

 充電するという存在理由しかない私の携帯電話が、ポケットの奥の方で蠢き始めた。微かな振動を伝えてくる様が無性に腹立たしく、また相手のことが少しも気にならない始末であったから、歩みを止めることなく前に進んでいた。と、突然、前方からこちらに向かってきていた自転車と少女のペアが思ってもない距離にまで接近している事を知った(見えたという言い方は不適切だろう。まさしく、知った、だ)。それと同時に私の右半身に簡単にぶつかり、後に考えることもなく想像出来たこと、すなわち、両者(相手はペアだから同じ扱いにしては失礼なのかもしれない)が共にそのまま道端に投げ出された格好となった。

  運動不足と連携を強めつつあった私は、自転車の前輪や日本製とはとても思えないカゴをよける仕草すら出来ず、そのまま流れるように流されるように地面に身体と荷物ごと近付いていった。自転車と少女のペア(少女というよりも女子高生というのが正解だろうか。何しろ、制服を身につけている女性、だ)は、多少の動揺を伺わせる仕草を見せつつも懸命に普段の体勢(自転車販売用パンフレットに掲載されている写真とまではいかないまでも、笑顔だけはいつも絶やしませんと言いたげな顔や姿勢)にしがみつこうとしていたが、それも到底無理な話で、カゴの中にあったと思われる黒い塊は何回転かした後に外に放り出され、中に入っていた物が地面にぶつかった音で、固いもの、恐らく筆箱あたりだろう、それが己の存在をこちらに押し付けてくることは防げなかった(回転をした割には遠くまで出かけることもなく、倒れた自転車とさほど距離のないところに放り出されていた)。自転車本体は、私の身体と接触して二度の痙攣を経験した後にそのまま倒れた。少女は不思議なことに、自転車と別れる際のー男性と違って足を自転車の内側を通す動作を展開し、結果的には自転車を払いのけるような仕草をとっていたー自転車の二度の痙攣は思ってもみなかった事態に多少の動揺をしている証拠を示す結果となったーすなわち、脊髄反射の如く、ブレーキを瞬時に握って離してを繰り返していたのだった(この時、事故をした際に体感するというスローモーションはどこにいったの? と言わんばかりの顔をしていたのは後に見物客に聞いた話である)。 

 蠢いていた携帯電話はいつの間にか静まり返っている。今も存在しているのかも怪しかったが、それどころではなかった。私の身体の異変には興味はなかった(興味があったとしても何も気付かなかっただろう。事故直後を何度か経験していれば分かることだ)。すぐに少女の方に歩み寄った。少女は無表情で自転車の左側のハンドルを握ったまま、中腰の姿勢を保っていた(自転車本体は右方向に倒れたようである)。払いのける姿勢を取りつつも、ブレーキを瞬間的に握りつつも、左手はハンドルそのものを手放す事はなかったようだ。少女の身体が腰のほんの少し上部でゆっくりと折れ曲がっているように見えた。元々、姿勢はあまりよくないのだろうか。私の不躾な観察眼とその思考が私の肩に手をかけ始めていたが、とっさに払いのけた。今はそれらの出番ではない。恐らく、今この時にかぎっては、だ。

  私と少女と自転車(黒い塊は今ではオプション的扱いだ)の動向を見ていた、おそらく主婦と思われる女性が駆け寄ってきた。『ちょっと、大丈夫?』彼女は言った。私はそのまま少女の方に顔を向ける。私自身もその言葉の対象になっていたのかもしれないが、少女の方が心配だった。しかし、少女は何も言わない。黙ったまま、白いカゴを見つめていた。顔色も髪型も服装も数分前と何も変わっていない、状況がほんのちょっと変わっただけ、それとも何? いつの間にか私の所持金が減ったとでも思ってるの? 少女は目でそう語っていた。白いカゴを見つめている両目はそう語っていた(神様どうかお許しください、私の観察眼と偏屈な思い込みが少女の今を奪い去ろうとしています)。

  私は、右側のハンドルを使って自転車を起き上がらせようとした(その時、ほんの僅かな痛みが肩を襲っていた。後々、これに苦しめられるとはこの時は気付いていなかった。事故直後を何度か経験してはいても、それと同時に時間も経過していることを忘れがちだ。身体の節々の叫びを今頃知っても遅いのである)。私個人の荷物は投げ出されたままにしておいた。中身も大したものはない。壊れるものもないし、気にしても気にしなくても動きようのない事実は事実だ。そっと視線をそちらに送り、自転車に手をかけ、力を入れようとした。

  突然、少女が私の手を思い切り叩き始めた。自転車から無理矢理にでも私の手を払いのけようとしているのだろう。力自体はそこまでないが、勢いはある。呆気にとられていた私と主婦らしき女性は数秒ほど見つめ合っていた。やがて諦めたように視線を少女に向け、その手を(今では自転車を握っていた手も叩く動作に参加していて、その両手ごと)掴み、『やめんさい。怪我してないのね?』と訪ねていた。女性と同じ様に多少は落ち着き始めた私は、ふと、少女の大腿部の一部が赤くなっているところを気付き、『そこ、怪我してるじゃないか。大丈夫かい?』と問った。少女、無言。表情すら、数ある能面の中の一つだと言わんばかりにそこに存在していたが、それ自体、何も語ろうとしていない。無言で何もかも訴えることが出来るとでも思っているのか。これこそが私の心の身体の叫びだと言っているのか。分からないが、大腿部の一部も、そして少女の内面も、大したことはないと私は判断した。そう思えるほどの状況にはないのかもしれないが、私の内面の声がそう告げていた。関わるのはここまでだ、あとは黙って手を差し伸べて、向かっていた先に少女を送り出せ。考えるよりも、これまでの時間に目を向けろ。特に予定もないのに、内面の声は何を焦っているのか、時間を気にするように強制し始めていた。

  私と少女の物語に途中参加してきた女性も同じ様に感じたのだろう(もしくは内面の声というものが同じように備わっていたのかも)、通りの先を見つめながら『帰りは大丈夫ね?』と少女に語りかける。

『私は少女じゃない。あなた方とそんなに変わらないのよ』少女が声を出した。内容よりも喋ったことに対して驚きを感じ、またもや私と女性は視線を絡ませ、見えない会話(あなたはこの少女を知っていますか?いいえ、最近、引っ越してきたばかりなもので)をひとしきり終えた後、『そう、ごめんなさい。帰りは大丈夫?』と声をかけた。かけたというよりも、声を出さなければいけない状況だった。今のこの空間を支配しているのは明らかに少女(いくら考えてみても私達と同じとは思えない少女)だった。私と途中参加の女性に、何かが押し迫っている気がした。

  それまで中腰だった少女は、ゆっくりと身体をおこし、やがて、直立不動の姿勢になった。白いシャツに濃紺の短めのスカートが定位置におさまる。数分前と何ら変わっていない(私を操る脳みその野郎は、数時間経過していると繰り返し警告していた)、所持金も同じ。少女が語っているのではない、そう私が思っただけのこと。そして、私は手を差し出した。無意識のまま。内面の声は今は黙っていた。そこに存在してはいたが、私には何も語りかけてはこなかった。 

 『今日って、満月なんですってね』私と女性に対して語り始めた。少女は上唇を異常に鼻に近づけながら話す様で、それが醜く感じられるのは私だけではない自信があったし、それもまた、今は関係のないことだった。私は宙に浮いたままの右手をそのまま腰(少しずつ少しずつ痛みを発しつつある部分)の方に動かした。途中参加を悔やみ始めている女性は、何も言わず、そっと道をゆずるように身体を動かしていた。私はそんな女性に感謝していた。手を差し出す相手を間違えていたのかもしれないとも感じていた。

  少女は自転車とのペアを再開し、そのまま商店街の中を進み始めた。白いカゴの中には多少の汚れを身にまとった黒い塊がおさまっており(いつの間に拾ったのか、誰が拾ったのかも私には分からなかった)、目立たない汚れだけが少女の身に起きたことを記録していた。それの汚れも少女も自転車も、緩やかなにカーブしている商店街の向こうに消えた時、同じ様に女性も姿を消していた。一人残された私は自分の身体を眺めながら、荷物を拾いに歩き始めた。右足の靴もかかとから外れかかっていたから、とんとんと元の戻す。荷物は部屋にいる時と同じような形で道路の上に存在しており、気にしなければそのまま忘れてしまいそうな存在感だった。

  商店街を横断する道路で信号待ちをしている時に、再び空を見てみた。山々はおろか、極端に視界が狭くなってしまっていたから、真っ黒な空が落ちてきそうだということ以外は何も感じなかったし、別にそれで不満を感じることはなかった。そのまま、道路を渡り、家に着く前にスーパーに寄るべきかどうか思案しながら、前方の遥か先を意識していた。

  【 Jul. 28, 2011 】